「理学データベースの構築促進と体制の整備に向けて」

第3章 期待される効果

"3-1 新しい複合研究領域の創出


(1) 生命科学
 生物学関連の広範なデータは,すべて何らかの意味でゲノム情報と関わりを持っている.将来のゲノム解析は,地球上全ての生物の遺伝情報の解明に進むと考えられており,ゲノム情報を軸として,生物学関連の情報が,高度なネットワーク・システムにおいて統合化されよう.この統合化によって,これまで異なる分野として発展してきた生物学の各分野間において,横断的な新しい科学研究が進展する可能性が高い.例えば,ある植物や動物の成育分布という環境情報も,その生物のゲノムとどのように関係しているかが重要な問題となり,さらに分子レベルではどの生体分子にその生物個体の特徴が現れているか,ということさえ学問的興味の対象になろう.このように,分野を横断する新たな学問領域の創出が,理学データベースの拡充とネットワークの高度化によって,より迅速に進むことになると期待される.
 もともと,生物物理学は生物学と物理学の学際領域であり,生化学は生物学と化学の学際領域であり,現状でも,幾多の学際協力的研究が行われてきている.このため,これら領域にとっては,理学データネットワークの構築によって初めて複合研究領域が生まれるとは言えない.しかし,物理学や化学と生物学との交流が,これまでは学会等を通じた個人的な研究者間のつながりによって支えられてきた状態が,理学データネットワークの構築によって,より自由に行われることが期待される.物理学や化学によって得られた知見・方法論を生物学に応用する一方,生物学で発見された事象の物理的,化学的分析もなされよう.また,化学物質のデータベースは,生体分子の化学的性質の解析に極めて重宝なものになろう.さらには,古代の地層から発見された生命体や,宇宙空間や隕石から発見された有機物や生命体の解析は,地球科学や宇宙科学の分野とも連携する可能性がある.
 医学・薬学・農学・工学の分野では,理学と異なって人間社会への科学の応用を第一にめざしており,経験的な知見も重要視されるため,経験則の蓄積としてのデータベースの重要性が理解されていた.さらに,理学データネットワークによる演繹的なデータベースを加えることにより,上記経験則の精度が高まることが期待される.特に,医学・農学との密接な連携によって,実験システムとなる生物材料間の情報・物的交換が推進されよう.また,ゲノムデータは,医学とはヒトのゲノムに関連し,農学とは農作物や昆虫のゲノムに関連して,極めて密接な関係がある.むしろ,医学・農学の分野の研究所がデータベースを管理している場合の方が多いとも言える.

(2) 地球環境科学
 地質学分野では,調査・分析手法の近代化による数値データの増加とコンピュータの登場を受けて,地質現象の数理記載・統計解析・数値モデル化などを目指す数理地質学(Mathematical Geology)という新しい分野がアメリカを中心に1960年代から発展してきた.その後,データの種類・量の飛躍的拡大とコンピュータを中心とする情報技術の急速な進歩によって,地質学データのシステム化とその応用のためには情報学の手法を取り入れることが不可欠となり,数理地質学の枠を拡大した情報地質学(Geoinformatics)が1980年代後半に発展してきた.理学データネットワークの構築によって,地質学分野の研究に他分野のデータが大量かつ容易に利用できるようになると,これまでの地質学という枠を越えた総合的な研究が可能となり,「情報地球学」ないし「情報環境学」というような新しい分野が発展してくることが期待される.
 固体地球物理学分野においては,地震波動データの世界的規模でのネットワークによる収集とデータベース化が,トモグラフィーの手法の適用による3次元的可視化をはじめ,地球内部構造の詳細な解析に威力を発揮し,地球化学や地球電磁気学的研究および測地学的研究と結びついて,地球ダイナミクスと呼ぶべき総合的分野を形成しつつある.また,気象学分野と海洋学分野は気候変動をはじめ,大気と海洋の密接な関係が明らかにされ,相互作用の研究が一つの大きな分野を形成していて,理学ネットワークにより更なる発展が期待される.  太陽活動をエネルギーの源として地球周辺空間に生起する様々な現象を対象とする太陽地球系物理学分野は,太陽活動から地上における地磁気変動まで多種多様な観測データをもとに発展してきた分野で,もともと複合分野の色彩を強く帯びている.国際地球観測年(1957-58年)と共に設立された世界資料センター(WDC)として我が国に存在する8つの分野別センターのうち,7つまでが太陽地球系物理学分野に関係していることは,データの取得・流通に関しての現業官庁の支援が少ないこの分野の特徴をあらわしていると共に,WDC組織を通してネットワーク化されたデータセンターが,このような複合領域の発展に大きな役割を果たしていることを示している.最近,WDCは環境や人間活動の分野も取り入れており,理学ネットワークが整備されて,その支援を受けることが出来れば,活動の更なる飛躍が期待できる.

(3) 物質科学
21世紀においては,化学を中心に周辺の諸分野が統合して,物質科学と総称されるべき新しい科学技術の世界が展開すると予想される.この新分野において,情報が果たす役割は計り知れないものがある.現代科学技術の水準をもってしても,化合物の構造からその性質,物性,機能を予測することは今なお不可能である.しかし,リード化合物の構造と性質,物性,機能の関係から,リード化合物を僅かに変化させ,修飾した化合物の性質,物性,機能を推定することはある程度可能である.特にリード化合物およびその類似物質のさまざまな情報が完全に整備されているならば,その種の類推はいくらか容易となろう.例えば,コンピューターに使用される高性能半導体デバイスを作成することを考えてみる.世界市場をリードする優れた製品を作り上げるためには,電気,機械,そして化学の分野の研究者の智恵を集約することが絶対に必要である.優れた電子機器を製品として組上げるには,コアとなる電子デバイスの他に,絶縁材料,接着材料,保護材料,構造材料,筐体材料としての機能を持つ優れた物質が必要となってくる.半導体デバイスを塵や湿度や衝撃など外的環境からシールドし,なおかつ生産現場での生産性を高め,さらに環境にやさしい材料である必要性を考えると,基盤となる機能材料に,半導体製品として要求される電気的性質,機械的性質を満足させるために種々の機能物質を補助材料として加えることによって高機能・高物性を持つ機能物質を合成しなくてはならない.このようにして作りあげられた高機能物質を電子デバイス部品と共に組上げることにより最先端の半導体が製造され得ると考えられる.これらの様々な機能物質の単品としての電気的性質,機械的性質,物性の情報と共に,それら機能物質の成分比を変えたり,複合させて調製した物質の性質の情報もデータベースが整備されているならば,半導体デバイスなどの最先端・高機能製品や物質の開発・研究が効率的に迅速に進展させることができると考えられる.多数の類似物質を合成すると同時に,それらについての得られた情報の高度利用を戦略に組み入れて成功を収めているコンビナトリアルケミストリーは,新物質,新材料開発における情報の利用法の新しい考え方を示していて,理学データネットワークはこのような点からも物質科学の発展に大いに貢献しよう.

(4) 情報科学
 データベースとネットワークの複合によって,ルネッサンス時期における印刷技術の発明,20世紀におけるマスコミュニケーションの発明に続く第3の情報流通革命が起こりつつある.この情報流通革命は従来の出版やマスコミュニケーションを大きく変えるものであるが,これによって文系の学問の研究方法などについても大きな影響があると考えられる.研究成果のオープン化は異分野との交流を容易にする.このため新しい複合分野がさらに生まれてくることが期待される.
 現在までの情報科学は,例えばジェット機で言えば,ジェット機を設計する方の人間が情報科学の中心であり,コンピューターを利用する側の人間は,パイロットであった.しかしながら,応用の側からの新しい要求で,ジェット機そのものが変わる,といったことも必要となってきており,このために応用領域と情報科学の内部の領域との交流が非常に重要となってきている.このような目的のためには,データベースによる知識の共有は非常に重要である.
 大量のデータからの知識の発見は,従来のデータベース分野では売れ筋商品の発見や,並べておけば同時に売れる可能性の高い商品の発見に使われてきたが,従来の統計学とも組み合わせて理学の各分野で知識発見の手法が研究されつつある.これらの成果もデータベースによって統合利用できるようにすれば,他分野の手法を活用したり,より一般的な手法へと発展させることも可能となる.
 情報流通革命による社会の変革やそのための文化的制度的研究には文系学問との協力も欠かせない.この協力によってより新しい分野が創設される可能性がある.  また,科学技術情報は,専門家が使うだけでなく,他分野へ技術移転出来,一般の人が利用できること,科学技術教育に利用できることも重要である.例えばアメリカの地球観測システムなどでは小学生でも使えるようなレベルも考えていると言われている.日本のように科学技術立国をめざしている国では特に若い人への科学情報の伝達・流通が重要であろう.

3-2. 社会および産業界への貢献


(1) 基礎的複合データの提供
 一例として地球科学を例に取ると,最近の研究は,大気科学,海洋科学,固体地球科学等のそれぞれの圏内科学から,多圏にまたがる研究へと大きく発展している.このような多圏相互作用の研究においては様々な分野のデータを総合して調査することが必要になる.異なる分野のデータベースが共通のフォーマットと共通のアクセス方式によって提供されるならば,これらの複合データをより効率的に処理でき,システムとしての地球環境変動の解明に大きく役立つに違いない.

(2) 地球環境リアルタイム情報の提供
 海洋汚染,大気汚染,自然災害など,地球環境に関するデータを(準)リアルタイムに提供することは,最近の日本周辺での事例をみるまでもなく社会にとって極めて重要であり,理学データベースの社会的存在意義の典型例として挙げることが出来る.例えば,オゾン濃度あるいは二酸化炭素濃度などは,環境問題を議論する基礎的なデータである.このようなリアルタイムの情報提供にはそのための特別な仕組みが必要であり,研究者にその作業や責任を依存することは避けなければならない.また,地球環境に関するデータは日本や近隣諸国だけでなく,世界的な規模での監視が必要である場合が多く,この意味からも日本がリアルタイムでデータを発信することの意義が大きい.
 人工衛星が飛翔する地球周辺空間の電磁的・プラズマ的環境は,太陽風によって引き起こされる磁気嵐や磁気圏サブストームの発生により大きく変動する.とくに,バン・アレン帯で知られる放射線帯の高エネルギー荷電粒子や磁気圏内を流れる電流は,計器の故障や人体の放射線被曝等により,飛翔体や宇宙飛行士の活動にしばしば深刻な影響を与える.磁気嵐時には極地方地上送電線に大きな誘導電流が流れ,しばしば大規模な停電事故を起こす.ネットワークを通して観測データをリアルタイムで収集し構築される宇宙空間あるいは地球周辺環境のデータベースは,上記擾乱の現況把握および予測を行うために必要不可欠で,宇宙ステーションの建設をはじめ,宇宙空間の本格的利用の時代を迎え,社会的にも重要な役割を果たすと期待される.

(3) 安全・防災関連研究情報の提供
化学の分野に関連して述べれば,現在知られている化学物質の数は2000万に近づいている.そのすべてが日常生活と関わりを持つ訳ではなく,また,すべてが有害であるという訳ではない.しかし,現代生活の複雑化が進むにつれて,我々が思ってもみないところに,思ってもみない化合物が,微量であっても使われることが増えてきた.加工食品,新建材など,その種の例は少なくない.このような情況を考えると,よく知られた毒物に関する情報ですら容易には入手できない現在の化学物質情報ネットワークの貧困さは,きわめて憂慮すべきである.何かことが起こってからでは遅いのであって,普段から使い勝手のよい情報網が整備され,その存在が周知されていることが肝要である.理学データネットワークはその機能の一つとして,この問に貢献できるだろう.
 地質学分野は,土石流・火砕流・崖崩れなどの自然災害や,路面崩壊・地盤沈下・地下水汚染などの都市災害の発生に直接あるいは間接に関連している.これらの災害を予測あるいは防止するためには,災害の引き金となる気象・地震・火山などに関する地球物理学データと共に,災害の背景となる地質・構造・含水率などの地質学データが重要である.前者が災害に直結して緊急性を要するのに対し,後者はそのような緊急性は少ないので忘れられがちであるが,災害に関係する重要な要因になる.理学データネットワークが構築されれば,地質学データを利用して,災害を引き起こしやすい地域を避けたり,地盤に対応した対策を施すなど,災害の予測・防止と被害の軽減に役立てることが可能になる.
 地球物理学分野でも,地震・火山噴火・豪雨・台風・高潮・津波・土砂崩れ等の各種災害に関する情報の提供が社会に大きく貢献することは言をまたない.このようなデータは例えば気象衛星データなどのように既にある程度情報提供のルートが確立しているものもあるが,基礎研究レベルにとどまっているものもある.後者の情報提供は慎重な配慮が要るが,ある程度ルーチン的な観測による情報の蓄積がなされている場合は,積極的に提供をおこなうための組織を整備すべきであり,そのための人材・資源の確保が必要である.また,ここで提供される理学データはGIS(Geographical Information System)等の工学関連分野による防災データベースとリンクされることにより,より効率的に防災に役立てられるであろう.

(4) ネットワーク時代の技術者の育成
 データベースの構築,管理あるいは通信ネットワークの構築は学術の世界では業績として評価されていない.しかし,理学研究を効果的に推進するためには,データ処理,データベース構築が研究にとって不可欠であり,独立した仕事として評価されるべきものであるとの認識を確立し,そのためのポストを用意する必要がある.データベースとネットワークをよく知り,かつ,専門分野の素養も身につけた専門技術者が,主要な研究拠点で情報管理と流通に専念する体制を作らねばならない.国家的な支援のもとに運営されるデータネットワークが出来れば,その種の技術者の養成に役立つであろう.

(5) 学校・社会人教育への貢献
 一般に,理学データベースは専門家向けの情報が多く,学校や一般の人が直接アクセスしても直ちには役立たない場合が多い.しかしながら,気象・海洋・地震等いくつかの事例においては生の記録を直接目にすることにより,地球の変動の姿を専門的知識がなくても理解してもらえるものもある.気象海洋関連の各種リモートセンシング画像,地震関連情報,オーロラに関する情報等,非専門家にもわかりやすいデータベースが整備され,これらの理学データベースを通じて理学関連分野への興味と感動を与えられれば,理学分野の重要な社会貢献になるであろう.そのためには,データベース構築組織の中で教育用に整理・変換したデータを作成して,教育分野からアクセスができるようにするなどの配慮が必要である.

(6) 新しい文化の創造
今まで情報は静的な知識の集大成であり,知識の所有者だけがその情報を占有した.知識の所有者がそれを他の人に分かちたいと思っても容易ではなく,情報の伝播に対して高い障壁があった. しかし,ネットワークによって情報の性格は一変した.情報は,放置すれば容易に拡散していくようになった.情報の伝播の速度,地理的な範囲,情報を受ける人の数,どれをとっても,一昔前には想像も出来なかった大きさとなった.
 理学データベースは,これまでの理学領域の学問の定量的にまとめられた成果の集合体であり,人類全体の知的宝庫である.この情報革命がもたらすものの大きさは,科学の範囲でもまだ十分には把握できていない.しかしそれが人類に新しい可能性をもたらすであろうことは察知できる.その際に,人にたとえるなら,血管の役をはたすのが物理的な意味でのネットワークである.このネットワークの整備こそ,情報化の世紀の鍵であり,新しいタイプの情報(広がりやすいという特色を持つ)を中心とする21世紀を生き抜くために不可欠の方策である.

3-3 国際社会への貢献


(1) 日本からの知的・創造的データの発信
 最近,各分野でデータフォーマットの国際的統一が推進されている.計画が単に新規データのフォーマットの統一と言うだけではなく,既存データの読み替え,さらにはデータのサーチエンジンのような機能も考慮するといった,かなりの大計画が実行されている.しかし,このような意欲的な試みはともすれば欧米の研究者の主導によって行われるのは事実である.言語の問題もあるが,日本が真に科学技術立国を目指すのであれば,情報に関しても一方的に受け入れる立場ではなく,情報の発信に関しても,積極的な貢献をしなければならないだろう.
  日本で利用度の高いデータベースが構築・公開されることは,これまで世界への情報発信の寄与が低いとされてきた日本の科学にとって,名誉挽回のまたとないチャンスである.現状では,日本人研究者によって測定・解析されたデータが,直接海外のデータベースへ登録される例が未だに多い.日本国内のデータベースの整備を行い,国内研究者の研究成果はまず国内のデータベースに登録され,そこから国際協力によって世界へ発信する仕組みを確立すべきである.我が国では様々な分野で世界が注目する観測・実験データが得られつつある.日本にはこれを処理する技術も人的資源も十分にあり,また,ますます太くなる通信回線を通じて外国データを取り込み,加工し付加価値を付けて再輸出することも可能であるから,データ処理体制を整備すれば,世界の情報発信基地としての役割を十分に果たせるであろう.
 インターネットで科学情報を発信することは世界に向けて窓を開いていることに対応する.開いた窓には色々な情報が投げ込まれ,世界の科学研究への貢献が実感できることになる.窓を開いていないことは存在しないことと同じになってしまうのがネット時代の科学研究と言える.

(2) 地球環境変動監視システムへの貢献
 オゾンの問題,温室効果の問題など,グローバルな環境問題において,世界各地での観測データを効率的に集積し,分析することは,21世紀における人類生存のための重要な対策といえる.強固なネットワークによって地球環境変動監視システムが機能することはその前提といえる.
 地球環境変動の監視は多くの場合グローバルな枠組みでなされるべきものである.我が国は少なくともデータ取得の面では高い密度のデータ取得がなされている分野が多いものの,グローバルな枠組みでの地球環境変動監視システムにそれらが有効に生かされているとは言い難い.単にデータ提供というだけでなく,グローバルなデータ取得と,その処理・解釈・公開の一連の過程をシステム化して提供することにより,地球変動の現状がより明確になり,各研究者の研究へのフィードバックのみならず社会一般にも大きく貢献できるものと期待される.